Antiquity in my Closet

我が子と近所に保存してある機関車をみていたら、幼少の頃父に買ってもらった鉄道模型を思い出し、40過ぎから模型工作を始めてみました。「鉄ちゃん」のイメージから、なんとなく家族には言えず、押入れの中にひっそりと・・・幼少のころ父とみた古の機関車の記憶。

TOMIX C57 135号機 入庫

記事をしばらく更新できていませんでした。そのうちに季節は冬。
冬は忙しく工作はほとんど出来ないのですが、そのような中、TOMIXのC57 135号機が入庫しました。

C57 135号機 TOMIX2003 -1

C57 135号機 TOMIX2003 -2

なぜ、KATOのリニューアルC57ではなくTOMIXなのか。たまたま中古で良さそうなものが安価だったことが第一です。他にはC57 135号機の特定機でキャブ密閉されている事でしょうか。デフや走行に関してはKATOの方が良さそうなのですが。保存機をモデルとした、このロッドの赤や艶のある黒も好きではないのですがね。

 

ただ、中古品のオークションもの。落とし穴がありました。届いたところ、足回りの片側のコンビネーションレバー(合併テコ)が外れているではありませんか。ガッカリですが仕方がありません。

C57 135号機 TOMIX2003 -3

C57 135号機 TOMIX2003 -4

C57 135号機 TOMIX2003 -8


子供の頃、KATOのC57を持っていました。今はもうそれは手元にはありませんが、当時気に入っていた機関車だった事を覚えています。
あの頃のKATOよりもさらにスタイルが良くなったTOMIXのC57です。細い印象を持ちました。本当によくできています。


ドーム前の手すりを見ても、KATOのC62よりもシャープな感じがします。C62のものは少し太い気がして別パーツに変えましたが、これは替える必要を感じません。
ただ、キャブ下の配管についてはKATOのものの方が雰囲気がでているような気がします。


残念なのは、合併テコですね。TOMIXのものは外れやすいと評判だとか。パンタグラフか何かで代用できるでしょうか。

 

さて、これから多分来夏にかけてになると思いますが、C57 135号機の加工を開始します。

C57 135号機 TOMIX2003 -5

今考えているのはC571次型の小樽築港機関区所属機です。

C57 135号機も良いのですが、135号機はデフの穴が大きく、築港区のC57の標準デフ化するときに少々問題になりそうです。有力候補はC57 57号機です。C57 57号機もデフ穴は大きい方ですが、C57 135号機よりはいくらか狭い感じがしたので、小樽築港機関区時代のC57 57号機を作ろうと考えています。


予定している大きなディテール変更の箇所は、

 ○テンダー台車を1次型のものに変更。KATOの新C57のものを使ってみます。
 ○デフを標準デフ化。前のコの字手すりは外す。
 ○重油併燃タンクをボイラに載せる。
 ○ロッド類の赤を消す。
 ○ナンバープレートの変更
 ○ボディの艶消し塗装化
 ○合併テコの修理

です。
思うようにできるでしょうか。今後のディテールアップ加工が楽しみです。

C57 135号機 TOMIX2003 -6

C57 135号機 TOMIX2003 -7

最後にC57 135号機の経歴を振り返ってみます。

 

1940年5月、三菱重工業神戸造船所で新製され、関東の高崎機関区に配属されます。


1952年4月に貸渡しという形で小樽に移され、そのまま移動となりました。小樽築港機関区に移ってから、重油併燃装置が取付けられているようです。1968年10月、函館本線滝川ー小樽電化により小樽での役割を終え、室蘭機関区に移ります。しかし、1年後の1969年10月には室蘭から現役最後の活躍の場となる岩見沢第一機関区に移動となります。


そして遂に、1975年12月14日、国鉄のSL定期旅客最終列車となった225レ室蘭本線・室蘭-岩見沢間を牽引します。 

 

その後1976年3月31日をもって廃車となりました。走行距離は3,253,253.1km。
1976年4月には、東京都千代田区神田須田町交通博物館に運搬され、以降、交通博物館にて展示されていましたが、交通博物館の閉館に伴い、2007年10月以降は、後継施設のさいたま市にある鉄道博物館に移設され保存展示中です。

 

状態は良さそうですね。C57 135号機復活、などあり得るのでしょうか。JRも厳しい状況ですし、今の観光業の打撃を考えると蒸気の復活は夢のまた夢ですよね。しかしながら九州の8620無限列車の繁盛ぶりを考えると蒸気機関車の復活はありなのかもしれません。


もしC57 135号機が復活、などということがあれば、加工後の姿も135号機にしておいた方が良かったかな?と思うかもしれませんね。

倶知安機関区の2つ目9600 -79618号機のディテール追加加工

 こちらは久しぶりに取り出した私の持っている唯一の9600形、79618です。本当は静態保存で現存している79615を作りたかったのですが、模型工作初心者の私が簡単に改造加工出来そうと言う理由で選んだ取り合えず倶知安機関区所属の2つ目79618号機を。という事で加工を始めました。

79618 倶知安の2つ目9600-1

 大体の形にしてからしばらく加工をしておらず、実に1年以上放置してありましたが、先日いくつか些細な所に追加加工をしました。
 1つ目は、ボイラー火室周りの配管を追加しました。非公式側の発電機への配管2本と、公式側のコンプレッサー付近からキャブに向かって斜めに配置されている配管です。両方とも0.2mmの真鍮線を接着しています。

79618 倶知安の2つ目9600-2

79618 倶知安の2つ目9600-3

 2つ目はテンダー後ろの尾灯と、エアホースの取り付けをしています。共に銀河モデルのパーツです。79618の写真をみていると、テンダーの端梁の連結器の両側に穴が2つ開いています。何のための穴なのか、いつ頃から開いているものなのか、勉強不足でまったく分かりませんが開けてみました。

79618 倶知安の2つ目9600-4

 3つ目は、非公式側のキャブ前の大小箱2つの追加です。この装置も何か分かりません。付いていない時期もあったようです。プラ板で製作し置いてみました。
 4つ目は、前面の向かってやや右側上部にある灯火用?のフックです。エッチングパーツのランナー切れ端で作りましたが、ちょっと大きすぎたでしょうか。これは79618号の写真では確認できるのですが、79615の写真や保存機を見ても79615にはついていないようです。
 5つ目は、公式側キャブ下の速度検出装置です。C11のものに似てますね。これもランナー切れ端と導線の輪切りから作りました。

79618 倶知安の2つ目9600-5

  最後に、前面のデフとボイラの間に渡された架線注意標記の取付です。真鍮線0.2㎜を渡しレボリューションファクトリーの架線注意シールを貼っています。

79618 倶知安の2つ目9600-6

 以上の加工です。大した加工では無いのですが、久しぶりに79618を眺めることができました。やはり大正の名機9600はいいですね。そしてこの2つ目の9600は前面にエアタンクがあったり、給水温め器を背負っていたり、そこから延びる配管のゴテゴテ度合いなど重厚なまさに「機械」といった感じが好きです。各車番毎の個性が本当に出ているのですよね。蒸気機関車は全部そうですけど特に9600は色々な形があって面白いです。蒸気機関車に惹かれる理由はそういう人間的な所です。

79618 倶知安の2つ目9600-7

79618 倶知安の2つ目9600-8

 79618号機は、1924年2月に川崎造船所兵庫工場で新製され、道内に配置されました。手宮岩見沢遠軽→北見等を経て、1949年伊達紋別に配属、胆振線で使用された際に、2つ目前照灯に改造されています。そして1961年に倶知安に来るわけです。その際に切詰デフ、エアタンクの前方移設、給水温め器装着が行われたようですね。旋回窓の取り付けは1967年のようです。少し後だったのですね。


 79618号機は倶知安に1973年まで居ましたが、その後小樽築港へ一時移ります。すぐに室蘭の鷲別、道東の池田へと転属します。79618は2つ目の9600として有名なわけですが、池田に移った1974年、2つ目前照灯を取り外し、標準の前照灯へと交換されます。また給水温め器も取外されてしまいます。その翌年、1975年には使命を終え、廃車となりました。実に50年・半世紀にわたって北海道で活躍した蒸気機関車です。

79618 倶知安の2つ目9600-9

79618 倶知安の2つ目9600-10
 79618号機は解体されてしまいましたが、同じように半世紀活躍し、同じ時期に倶知安区にいた79615号機は2つ目のまま倶知安町で余生を過ごしています。先日も近くの小学校の写生会で子供たちに絵を描いてもらっていた様子。もう少し大事に保存されればもっと良い余生なのでしょうが。

↓ 過去の79618加工の記事

路線バスと夜汽車の旅。山線H100系「DECMO」。

 今年の春から山線が通るこの町のJRの気動車は、側面に「DECMO」と書かれた銀色車体の緑と黄、黒の模様の車両に代わりました。H100系という電気式気動車だそうです。電気式気動車とは何でしょうか?「自車に搭載したディーゼルエンジン等の内燃機関(ICE)で発電機を駆動し、その発生電力で台車の電動機を駆動して走行する気動車である。(Wikiより)」電気式気動車は昭和初期からあったそうですが、当時は重量や性能の面から普及しなかったようですが、今の時代になってそれらを技術で補う事ができ、且つメリットがあるということなのでしょう。デザインには賛否があると思いますが、見た目もなんともスマートです。私は子のスマートすぎる今の鉄道車両は機械っぽさが無くてあまり興味がわかないのでH100系の記述はここまでとなります。

H100系DECMO

 この夏、ちょうど函館に行く用事があり、その帰り道、節約の目的と新型コロナの三密を避ける目的で、函館~長万部は路線バス、長万部~我が町の山線区間はJR(普通列車・・・しかありません。)を利用してみました。その際にちょうどこのDECMOに乗ることができました。
 
 バス旅は久しぶりです。しかも路線バス。函館バスの310・311系統です。各バス停で人がぽつりぽつりと乗ったり降りたり。函館市内を過ぎると、ほとんどの間、乗車している人は2・3人です。函館駅前から長万部駅前まで、通して乗っていたのは私だけでした。途中の森駅前のバス停では運転手さんも10分くらいの休憩時間。止まっているバスからは森駅に停車するキハ40やいかめしの販売店が見えました。ちょっと降りて自販機でジュースを買ったり。七飯から森町あたりではアジア系の人が乗り降りしてました。観光客ではなく、住んでいるみたい。このあたりで働いているのかな。のんびりとしたバスの旅でした。

森駅でキハ40

森駅のいかめし屋さん

 長万部駅からは普通列車です。夜の列車だったので乗っている人は5人くらい。久しぶり何年ぶりの夜汽車の旅でしょうか。そして新型の電気式気動車。そういえばエンジン音も静かだったような・・・。車いす用のトイレスペースも広々と取っていましたね。昔の気動車に比べて座席数は随分少なくなった感じがしましたが、時代のニーズなのでしょう。夜汽車の眠気を誘う空気感に負けないよう田舎の車窓風景を眺めますが、ほとんど真っ暗であまり意味がありません。それでも何とか降りる駅を過ぎることなく無事家路につくことができました。

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H100系DECMOとキハ40 長万部駅にて

H100系室内-1

 翌朝、いつものように仕事に向かう自転車から、定刻通り走っていくDECMOを見送ります。私も定刻通りの自転車通勤。久しぶりに乗った夜汽車。昨日はありがとうございました。

H100系DECMO 朝の山線

H100系DECMO 朝の山線-2

C62 3号機 ディテールアップ 軽加工(その3) KATO C62北海道形から

気動車の作業が続いていましたが、今週はまた蒸気機関車に戻ります。蒸気機関車の花形。C62 3号機です。

KATO C62 3 ディテールアップ-2

KATO C62 3 ディテールアップ-3

 前に作業したC62 2号機と同様、C62 3号機にもメーカーズプレートを貼り付けました。C62 3も製造は日立です。KATOのC62 3にはメーカーズプレートの印刷はありますが、やはりレボリューションファクトリーさんのパーツは見た目が非常に良いですね。ちょっと離れても、少し汚しをしても、存在感があります。

KATO C62 3メーカーズプレート取付-1

KATO C62 3メーカーズプレート取付-2

KATO C62 3 ディテールアップ-1

 C62 3は、D52 458の改造車両という名義で、日立製作所笠戸工場で、1948年(昭和23年)6月18日に落成しています。第二次世界大戦当時、国鉄運輸省)には戦時物資を輸送するためD51形・D52形の貨物用の蒸気機関車が大量に在籍していました。しかし、終戦とともに軍事輸送の廃止、工業生産低下で貨物需要が激減しましたので、貨物用の蒸気機関車は余剰となってしまいました。

 

 一方、地方への生活物資の買出しや、戦地からの復員・引き揚げの影響で旅客輸送の需要が激増しました。旅客用蒸気機関車は戦争中に製造が中止されていたため、極端に不足していました。当時の大型旅客用蒸気機関車であるC57形・C59形の増備は追いつかず、また石炭の質の悪化により、性能も低下している状況でした。そのような状況の中で、この問題をクリアするための、より大型で強力な重量旅客用機関車を製造する必要に迫られましたが、占領軍の方針や資材の不足で機関車の新製は困難でした。

 そこで、余剰となっていた一部の貨物用機関車のボイラーを旅客用機関車に転用し、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車C57形・C59形の設計を用いて組み合わせた機関車を「改造」名義で製造することになりました。これにより、D51形からC61形、D52形からC62形が改造されました。C61形は、C57形相当の乙線規格の機関車で、C62形はC59形相当の特別甲線での特急列車・急行列車の牽引を目的に改造されていますす。なお、D52形より転用されたボイラーは、戦時製造のため信頼性が低く、少数の早期廃車機を除いては後に新製ボイラーに換装されています。(C62 3は、1956年8月に鷹取工場にてボイラーを新缶に交換しています。その際、北海道向けの軸重軽減工事等が施されています。C62 3は北海道に一番早く渡ってきたC62です。

 

 製造銘板ということで、C62の製造にまつわる事を書いてみました。その当時の鉄道の技術開発、車両の製造には時代の背景が密接にかかわっていて面白いですね。特に現代よりも鉄道のニーズ、存在意義がとても高かった時代。現代は廃止や縮小が声高に叫ばれることも多い時代。しかし車両の開発は設計者と製造者の努力によって現代も進められています。全ての車両の設計者、製造者に尊敬の念を抱きます。

 

↓今までのC62 3のディテールアップの記事はこちら

antiquity-closet.hatenablog.com

 

 




キハ21 (鉄コレ雄別鉄道のキハ49200Y改) 追加工作

先日完成したキハ21です。

キハ21 4 放送用ジャンパ取付-2

少しだけ手を加えました。
1つは高さがありすぎ、線路スレスレまであった水タンクの上側を削り、大きさを修正しました。
床下機器についても気にはなっているところですが、これはまだ良しとしておいてます。

キハ21 4 床下水タンク修正-1

キハ21 4 床下水タンク修正-2

もう1つは、両妻面のステップと放送コード(放送用のジャンパ栓KE66)です。
テールライトの横、タイフォンの右側に付いているステップとコードです。キハ22と同じように、
パーツの切れ端をカットしてステップ風に作り接着しています。ジャンパ線(コード)は真鍮線0.3mmをボディに穴開けして差込み、接着しています。栓受は小さすぎて表現が難しいので省略しています。

キハ21 4 放送用ジャンパ取付-1

ところで、TOMIXのキハ22はハイグレードと銘打っているのに、この放送用のジャンパ栓受とこの上のステップの表現が無いのはどうしてなのだろう、と疑問に思っていました。一般用気動車に放送装置が取付けられるようになったのは1960年頃からのようですね。キハ21も22も、製造当初は付いておらず追加改造工事により取り付けられたものなのでしょう。

ここから少し、後日追記したものです。実は上の写真までは、トイレ窓がある側の側面右側のATS標記の位置が間違っています。なぜかキハ21は、4つのATS標記のうちこの1つだけが、乗務員扉の後ろについていました。気が付かず、全部乗務員扉の前に貼っていましたが、修正しました。また、トイレ窓に裏側から白いシールを貼って、白くしています。実車はすりガラスのものと白のものがあるようですが、函館区のキハ21は白が多いようでした。

キハ21 ATS標記位置修正

キハ21 ATS標記位置修正-2

↑キハ21、前と後ろのATS標記の場所の違い(トイレ窓のある側)

保存車が1台も残っていないキハ21のディテールは限られた過去の写真からだけしか追う事ができず、また、キハ21はほとんど北海道の車輛だったためなのか、写真も少ないですね。札幌近郊のキハ21の写真は割と見つけられたのですが、函館所属のものや長万部所属のキハ21の写真はあまり見つけることができませんでした。

完成品の大手メーカーの模型ではキハ21は出ていませんが、是非、製作していただきたいものです。

 

キハ21とキハ22を繋げてみました。江差松前線や瀬棚線で見られた普通列車のイメージです。

キハ21 とキハ22の普通列車-1

キハ21 とキハ22の普通列車-2

↓今までのキハ21関連の記事です。

キハ22 TOMIX の加工(函館区所属のキハ22)

 長らくブログ上では放置していたキハ22ですが、キハ21の製作の陰でちょこまかと加工をしていました。新品時と良くも悪くもだいぶ印象が変わったので紹介します。

キハ22 -91 函館所属-5

キハ22は車番を91にしました。キハ22 91は、1960年10月に富士重工で製造され、苗穂に配属されました。その後1968年~1970年くらいに函館に移ってきたようです。1984年の廃車まで函館に所属し、江差松前線、瀬棚線などを走っていたようです。キハ22 91にしたのは、函館区にその頃所属していたものの中で写真が数点あったことと、RLFのインレタに掲載された車番だったからです。廃車の年をみると製作したキハ21 4と同じ時期。奇遇ですね。良い選択でした。

さて、TOMIXのキハ22ですが、さすがハイグレード仕様で、申し分ない出来です。加工するのを躊躇してしまいます。本当に簡単な所だけ加工しました。

まずはタブレットキャッチャーです。
これはトレジャータウンのタブレットキャッチャーを付けました。マイクロエースのキハ22に付いているゴツイやつです。函館のキハ22はほとんどこれだったみたいですね。そして、タブレット防護網も函館仕様の網のものをつけてみました。キハ21と同様、0.5mmメッシュのエッチングプレートをカットして取り付けました。窓を外してからです。

キハ22 函館所属 タブレット周り

正面の片側にエアホースを付けました。KATOのASSYパーツでキハ58用のジャンパ栓付きエアホースです。ホース部もクリーム色なので黒で塗ります。しかしこのパーツ、すぐに色が剥がれてしまいます。なにかいい手は無いのだろうか・・・。

キハ22 -91 函館所属

両側の正面に放送用コードと小ステップを付けています。放送用コードは0.3㎜の真鍮線を用い、小ステップはエッチングパーツの枠を小さく切って作りました。ちょっと雑さが出てしまいました。

TOMIOX キハ22 91 函館所属-2

片側の屋根のコの字ステップも真鍮線0.3㎜で作って付けました。本当は全部のコの字ステップを真鍮線に置き換えればよいのですが、ちゃんとできるかどうか不安なので屋根だけにして他は諦めました。手すりなどもそのままです。

あとはインレタを貼ります。インレタはレボリューションファクトリーのものです。スケールなども精度よく、拡大しても字がきちんと印字されて読める、素晴らしい出来栄えのインレタです。しかし・・・。私の腕が原因で、キハ21と同様、キハ22も曲がったり一部欠けたりと・・・・。本当にへたくそで、嫌になります。雰囲気だけ出せた感じですが、拡大してはいけません。インレタを貼って、曲がっているところなどがあるのは承知していたのですが、やり直す気力がなくなり、そのままトップコートを吹いてしまいました。
もうやり直せません。
トップコートもキハ21と同じようにクレオスの水性プレミアムトップコート 半光沢のスプレー缶です。これ本当に吹きやすいですね。

キハ22 -91 函館所属-4

キハ22 -91 函館所属-2

他に床下の機器がないところを艶消し黒で塗っています。

 

 

キハ22 91 函館所属 -9

キハ22 -91 函館所属-3

そんなところでキハ22 91の完成です。先日作ったキハ21はトレーラー車なので、モーター車のこのキハ22と組んで走らせたいですね。
気動車シリーズはこの2台でしばらく終わりかな。この手の車両の加工には課題は色々あるのですが、やはりインレタ貼りをもっと上手になる必要があると感じました。 

  ↓過去のキハ22の記事です。

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キハ21 形 を鉄コレ雄別鉄道キハ49200Y形から製作 -了

  鉄コレ・雄別鉄道のキハ49200Yを北海道道南の瀬棚線や江差松前線で活躍した函館区のキハ21 形風に加工してきましたが、この作業を先日ほぼ終了しました。今のところの完成形がこれ↓です。

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから2)


前回は上回りの塗装を行ったところでした。

 今回は、ざっと並べると、窓周りの加工と、インレタ貼り付け、クリアコートの吹き付け、そして床下機器の一部変更といったところです。

 まずは窓回りの加工。ボディにトイレ窓を開けましたが、その窓パーツをどうするか。アクリル板などから自作する方法も考えてはみたものの、加工技術が未熟なので仕上がりは製作結果には期待できません。考えていたところ、同じ鉄コレのキハ20系列の私鉄ものが安く売られていたのを見つけたので、ここからいただくことにしました。ついでに、正面窓を含む、バス窓以外の窓も全ていただくことにしました。タネ車の雄別は無塗装だったので、Hゴムのグレーなどが塗られていなかったので丁度よい結果となりました。

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから6)

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから3)

 また、正面の窓にはデフロスタを取り付けました。デフロスタはタヴァサホビーハウスのものです。窓の裏からゴム系接着剤で隅を貼っています。取れそうですがなんとかなりました。

 次に床下機器です。おそらく鉄コレの雄別とキハ21では結構異なる箇所が多いようです。キハ21自体、新製当時は温気式の暖房方式でしたが、1975年一部温水暖房へと改造されているそうなので、キハ21 形式の中でも時代や型番により床下機器が異なるということになります。そういう事で今回私の製作した機番の床下の機器の配置・形状などは正確には分かりませんでした。

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから8)

 今回、床下機器で手を加えてみたのは、キハ20やキハ22で目立ち度が際立つ床下の水タンク。キハ49200Yの鉄コレにはついていませんので、これを300円で入手したKATOのキハユニの床下から100均の「おゆまる」で型を取り、エポキシパテで制作しました。存在感あるのですが、写真のようにちょっと大きすぎましたので、後ほどもう上側を削り修正しようと思っています。

 さて、上物にもどって早速キハ21の形式や検査表記など、インレタ各種を貼っていきます。インレタはRLFのキハ22函館所属のものを使用しています。本当に細かなものですがよく作られています。
 しかし・・・。インレタ貼りは非常に苦手です。小さすぎてきちんと貼る事ができません。特に前面の検査表記などは手摺のモールドの隙間隙間に貼らなければならないため、何枚も無駄にし、且つ曲がったり一部貼れていなかったりと散々です。近くに寄って見られない代物ですので、あくまでも雰囲気です。

 型番はキハ21 4に決めました。函館所属で「急行せたな」の運用にも使われていた型番です。「急行せたな」はその後快速になり、名称がアイリスとなり、その間私自身、一番よく利用した列車と思います。子供の頃の、家族で函館に行く(父方の実家への里帰りでした。)という年に数回のワクワクする旅行。その時によく利用した思い出深い列車です。何か家族の記憶がある気がするのです。

 

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから1)

 キハ21 4は1957年に新潟工場で製造された後、苗穂に配置、その後ほどなくして函館に転属、以来1981年にわずかに長万部に転属した以外は全て函館を基地として、江差松前線、瀬棚線などで活躍しています。80年代に入りキハ21は次々と廃車になりましたが、キハ21 4は最後まで残り、1984年に函館で廃車となっています。

 加工の続きです。

 インレタを貼り終わり、インレタ保護のクリアコートを吹きました。この作業、実は初めて行いました。既製品ばかりの小加工なのでトップコートを吹くことは今までなかったのですが、今回、缶スプレーのクレオスの「プレミアムトップコート」を使ってみました。半艶です。 

  片側の妻面を厚く塗りすぎてしまいました。タイフォンが埋もれ気味ですが何とか塗りました。

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから4)

 

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから9)

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから5)

 窓をはめて、床下を付ければほぼ完成です。いかがでしょうか。窓の間隔が一定のキハ21 形風です。当初考えていたよりそれらしくなったと思います。ちょっと朱色の色が薄い感じがします。また、前面などは塗装のラインが気になりだし、筆で塗装ラインの修正を図ったところ、荒れてしまってボソボソ感が出てしまいました。また作ることがあればもう少し改善したいです。(パーツはもう1台作れる分は残っていますし、急行せたなの再現にはもう1台あってもよいか。。。)

 北海道の南、道南地区で活躍した、バス窓がノスタルジックな雰囲気を醸し出すキハ21。父も運転していたのでしょう。これを見せたら懐かしいなと言ってくれるでしょうか。

↓ 雄別鉄道キハ49200Y

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国鉄キハ21 4

キハ21 4 (雄別キハ49200Yから7)

↓今までのキハ21の工作記事

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